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No.13 都心の土筆(つくし)

本日午後3時過ぎ、渋谷から隅田川の東の我が家に帰宅する途中、最高裁判所から憲政記念館、祝田橋に至る通りの中央分離帯に、「土筆(つくし)」が密生しているのを見つけました。
車が順調に流れていたら気が付かなかったでしょうが、今日は車が渋滞していたお蔭で気が付きました。
皇居の周りは、もう桜が満開に近い状態ですが、春を告げるのは桜だけではありませんね。
一見、地味ですが、地面では土筆が春を告げていました。


東京のど真ん中で土筆が元気に生えているのに気が付いて、思わずなんだかうれしくなったり、妙に感心したりしてしまいました。
小学校に入る前だったと思うのですが、春になると近所の土手の土筆を摘んだことを思い出します。
確か、母が、この土筆を茹でて、おひたし、和え物、汁の実、佃煮などにしてくれたと記憶しています。


今日は、私は車を運転していますし、土筆が生えている場所は、幹線道路の中央分離帯ですから、摘むわけにはまいりません。
しかし、このような場所で「日本の春」を感じることができ、「オッ、発見!やるねー土筆も!」、そんな気持ちでした。


文明が進歩し、生活はどんどん便利になりましたが、その代わりに失ったものも沢山あります。
私たち人間も、地球の生物の一つに過ぎないのに、なぜか地球は人類だけのために存在するかのような「人の振る舞い」が目につきます。
いつの日か、自然の力を思い知らされる時が来る、そんな気がしていましたが、よく考えてみれば日本は火山帯の上に国土がありますし、太平洋側の海の底には巨大なプレートがいくつもありますし、沖縄から北海道まで台風の通り道でもあります。
おまけに、細長い国土の背骨のように山脈が走っていて、そこから太平洋と日本海に注ぐ川は急流が多いときています。
ですから、実際は、年がら年中、日本人は自然の力を、これでもかと思い知らされています。
それなのに、何故かすぐに忘れてしまう人が多い。
常に自然災害と向き合う宿命をしょっているのが日本だということ、是非とも忘れないようにし、心の備えだけはしておきましょう。


皇居周辺に生える「土筆」を見ながら、四季があることを実感し、感謝し、なおかつ異常なまでに都市化が進む現状に不安を覚えながら家に戻りました。


なんでも、江戸時代は、江戸に住む人たちの家には鍵がなかったそうです。
都会に住む現代人は、「エッ!本当?」と思うかもしれませんが、今でも、地方に行くと、鍵などかけないのが当たり前といった所は、まだまだ沢山あります。


そうした地域は、自然との距離が近いというより、自然の懐に抱かれるようにして、人が住まい、生活を営んでいる、そんなあり様こそが、きっと日本の原風景ではないだろうか。
私は、そんな感じがします。
皇居周辺に土筆が生えているのはうれしいけれど、都市化に飲み込まれる私たちになるのではなく、もうそろそろ、「自然に抱かれる都市」なんていうものを作って行くことを考え、実行し始める私たちになろう、そんな流れが始まってもよいのではないでしょうか。
土筆を見て、そんなことを考えていました。


私には、土筆は分かりましたが、分からない野草、山菜は沢山あります。
私が17年間、毎月通った長野県の木曽に住む、私より数歳年配の男性は、実によく野草をしっています。
「こうじゃなくてはいけない」、何度もそう思いました。
豊かな自然環境も、人の健康には必須の条件であることを、土筆が思い出させてくれました。
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No.12 余韻

昨日(10日)午後、皇居の西側に建つ国立劇場に行き、第16回琉球芸能公演を観てまいりました。
「新作組踊と琉球舞踊」ということで、第一部は、女踊、若衆踊、女踊、二才踊、女踊の五つの踊りです。
色鮮やか、優雅、華やか、力強さ、生命力、瑞々しさ、初々しさ、清潔感、様々な要素を感じさせられました。


第二部は、新作組踊『聞得大君誕生』です。
琉球王朝絶頂期の王、尚真王(在位1477~1526年)が、琉球社会の安定のため、宗教世界の秩序を整備する過程を演劇化したものです。
プログラムには、王の妹を、琉球国第一の神役「聞得大君(きこえのおおきみ)」とすることで、神と霊に仕える神女・巫女たちと民衆の間の混乱を抑え、同時に琉球国の宗教世界の秩序を整備した史実を背景にしていると説明されています。
以前、テレビドラマで観ていましたので、聞得大君といわれても戸惑うこともなく、しかもその誕生の意味と経過が分かるのですから、一段と惹かれるものがあります。


沖縄の幅広い信仰を背景にし、聞得大君誕生という太い柱を据え、身分違いの恋愛、兄が妹に寄せる恋慕を織り交ぜ、舞台は進行しました。


琉球の衣装、琉球の音楽、琉球の踊りと立ち居振る舞い、どれも息を呑むような美しさでした。
しかも、聞得大君となる尚真王の妹を演ずるのが、人間国宝となった坂東玉三郎丈ですから、言うことなしです。
玉三郎丈の美しさは、今更言うまでもありません。
それ以上に、玉三郎丈が毎日、舞台の完成度を高めるために続ける努力、これにはいつもながら頭が下がります。
あれだけの舞台を作り上げてなお、日々進化し続けるのですから、大変大きな刺激をいただきます。
今回もまた、舞台が終わった瞬間は忘我の世界、気持ちは、今まさに余韻に浸ろうととしていました。


しかし、それにしても最近は一体どうしたというのでしょうか。
余韻を楽しむ多くの人を邪魔する観客が、劇場に出現するのです。
多くの観客と、演じ終わった役者との間に漂う空気、一人一人が浸っている余韻、きっとそれを楽しむのはほんのちょっとの間だと思うのですが、それを邪魔したいのか、空気を切り裂くように、演じ終わるや否や、人一倍大きな拍手をする人が劇場に出没するようになってしまいました。
演じ終わるや否や拍手することが、あたかもご自分の最高の満足感を、演じ終わった役者に伝える自分の義務だと信じているかのような振る舞いです。
せっかくの舞台、劇場全体に漂う空気が、この瞬時の拍手で、フッと遠くかなたへ消えていってしまいます。


同じようなことが、コンサートでも頻繁に起きるようになりました。
優れた演奏、優れた演技は、人を現実とは別の世界にいざなってくれますので、終わった瞬間はまだ現実の世界には戻っていないで、余韻を楽しんでいます。
陶然としています。
余韻を楽しませないこの『大きな拍手』を、私は残酷な拍手と呼んでいます。



日本に限られたことではなく、どこの国においても、最後にほんのちょっとの時間、余韻を楽しむということはあると思うのですが、これは贅沢なのでしょうか、私はささやかなご褒美だと思うのですが。
芸術を楽しみ、堪能する気持ち、このぐらいの気持ちのゆとりは、しっかりと残しておきたいものです。


しかし、それにしても、人間国宝となってなお、新しい分野に挑戦し続け、沖縄の若い人たちと舞台を作り上げていく玉三郎丈の意欲、行動力、生き様には打たれます。
一途な生き方には、感動すら覚えます。


また、新しい刺激もいただきました。
これが明日へのエネルギーになります。


その後、食事をして自宅に戻ってテレビをつけたら、いきなり坂本の満塁ホームランです。
キューバを打ち破ったオランダにコールド勝ちです。
舞台で心の栄養をいただき、WBCですっきりし、とにかくプロに感謝の一日でした。


No.11 現代人は自然に対して傲慢になっているのではないでしょうか?

私の座右の書のひとつに、エッカーマンが書いた「ゲーテとの対話」という本があります。
気になる箇所が見つかると、赤線を引きながら、何度でも読み返しています。
ゲーテとエッカーマンが、偉大な自然探究者たちを二人の話題にした時、ゲーテはアリストテレスについて、次のように述べています。


「アリストテレスは、どんな革新的な学者よりもよく自然を見ていた。しかし、自分の意見をまとめるのに性急すぎた。自然から何ごとか得ようとするなら、ゆっくり時間をかけて自然を探求しなければだめなのだ。」
「私が、自然科学の対象を研究して、ある見解に到達したとしても、ただちに自然が自分の意見の正しさを認めるべきだなどと望んだことはなかったね。むしろ私は、観察や実験を試みながら、自然の後に従っていき、自然が時として私の意見を好意的に実証してくれるようなことがあれば、それで満足だった。そうでないときにも、自然は、私を他の着想へ導いてくれたので、私はそれに従った。おそらく自然の方でも、それを確証することを、どちらかというと、望んでいるようだったね。」(エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの対話』岩波書店)


私は、この箇所を読むたびに、ややもすると技術を過信し、自然を侮る、現代人の傲慢さについて考えさせられます。
もちろん、こうした現代人の一人に、間違いなく自分も含まれています。
何か大きな自然災害が起きると、日本のマスメディアは急に、まるでとってつけたように「自然の脅威」について取り上げますが、それでは遅いことは言うまでもありません。


私たちの国、日本は、太平洋側の海底には、日本を縦断する巨大なプレートがあります。国土は、火山帯の上にあります。沖縄から北海道まで、国土全体が台風の通り道でもあります。
おまけに、背骨のように山脈が連なり、太平洋側と日本海側にそそぐ川は急流が多いときています。
なだらかな平野は少ない。
しかも、日本海側や北海道には、とてつもない程の豪雪地帯もあります。


常に自然の猛威に晒されている、これが日本のはずなのに、なぜか災害が起きると「想定外」といった反応がでてきます。
「エッ!違うだろう?常に想定内じゃないの?」
こう感じるのは、私だけではないはずです。
もっともっと謙虚になり、「ゆっくり時間をかけて自然を探求し」、自然との付き合い方を身に着け、何ごとが起きても、常に自然の力には逆らうことなく、自然の懐に抱かれながら暮らす「自分」になれるよう努力をする必要があると思うのですが、いかがでしょうか。


自然の力を侮り、技術を過信した時、人類は自然の脅威の前ではいかに無力であるか、これまでに何度も何度も、これでもかこれでもかと知らされてきたはずです。
でも今なお、私たちは懲りずに同じ過ちを繰り返しています。
人間の「欲」とは、かくも人の目を曇らせるのかと思いますが、今年の冬もまた、自然の脅威による『事故』が後を絶ちません。


過去から学ぶ、先人の知恵から教えられる、自分の目をしっかりあけて見る、耳を澄ませて聞き取る、全身の肌で感じる、そして自分で判断し、決断して行動する。
右往左往しない自分になる。
私は、ここに戻る必要性を、最近ますます強く感じるようになってきました。
皆さんはいかがでしょうか?
プロフィール

岡山晄生

Author:岡山晄生
--Okayama Akio----------
株式会社リバーライト代表
調理道具研究家・家庭料理アドバイザーとして講演・執筆活動なども行なっている。著書に『料理のきほん食の常識』(グラフ社)等


料理の基本/食の常識
アマゾンにて取扱い

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